顕れ   -Esの顕れは疎外を転倒させるー

 感情や行動の動機は、からだの闇の中からいつの間にか湧き出てきて、素早く意識と同化しようとする。意識はその成り行きに違和感を覚えると流れを止めて、私はどうするべきかと考える。意識に先立つ何か=Esは、経験を蓄積して行動の効率化をおこなう領域と欲動の領域があるように思え、その最深部では人知の及ばぬ世界原理や五感の外側のような未知の外部に接している気がする。Esは無意識な視線の動きの中に顕れる。その視線が指すものを捉え、問い続けることで、生の可能性を拓くことができるだろうか。

                                  2019.10      

世界

 人間の作り上げた価値の中に世界は在り、モノとコトは混交し愈々以て判然としない。

                                           2019.1.5 

在りて在るもの

 

 気の向くままに撮り歩いていると、理由はわからないが眼が引き付けられることがある。違和感を覚えながらもカメラを構え、幾つかのダイアルを操作しながら心の的を絞ってゆく。何故私はそれを見たのだろうか。気が付けばすでにそれを見ていたし、今もまだ見ている。こんなとき大抵は「気が向いた」という言葉で済ませるかもしれないが、よくよく考えるとこれは恐ろしいことだ。気が向いたのは本当に私なのだろうか。そもそも私はその対象をどのように見始めたのだろう。眼が捉えてから物事に気付いている事実に動揺する。
 私の意識が気付く前に、視野を見渡し事態を把握する<何か>がいる。意識にそれを見ろ、判断しろと促し続ける、もう一つの隠れた存在。
                                               2017.9  

 他なるもの

 

 どんな写真を撮るのかとよく聞かれるが、その度に私は動揺してしまう。いのちとは何かとか、この世界が在ることの不思議といった根源的な謎を探ろうとしていると思うが、そんなことを言われても実際に撮る写真は目に浮かばないだろう。大抵の物事は見ればわかるのかもしれないが、私は未だわからないものを撮ろうとしている。最大の謎は何だろうといつも考える。一番わからないことは何だろうか。

 撮影は直感の中にある。気になる対象を見つけても「ああ、これはこういうことだな」と心の中で理解出来た写真は、どこか画面が説明的になり それ以上の広がりを感じない。だから理由がわからなくとも対象から受け取った感覚を信じること、例えば胃が少し引っ張られるような鈍い違和感、それが過ぎ去る前に撮っておく。ひどく繊細な無意識からの信号は様々なかたちで現れ、方法として確立しないが、撮影を繰り返すことで未知の感覚、又は長い間忘れていた感覚へ降りてゆけるような気がする。

 書いたきっかけは忘れてしまったが、思い付いたことを書き散らしているノートに「ヌミノーゼ」とあるのを見つけた。オットーという人の造語だった。その彼がヌミノーゼの説明の為に一冊を費やした『聖なるもの』という著書がある。読んでみるとヌミノーゼは私の身に覚えのある感覚だった。一人でキャンプをしながら誰とも口を利かずに撮影を続けていたり、部屋に居て窓の向こうを眺めている時、突然理由なき恐怖に襲われることがある。何なんだこの世界は。自分の手や体を見下ろしてみて、これは一体何だと思う。社会などとは無関係に、何故自分が存在しているかも全くわからぬまま、この世界に無防備に晒されているという、外界に対する強い畏れの感覚と、同時に現れる恍惚。これが宗教の背後にある根源的な感覚「ヌミノーゼ」らしい。

 「他なるもの」という題名は、ヌミノーゼの本質の説明として彼が用いた「全く他なるもの」という言葉から取った。神や宗教というものに対してずっと遠巻きに眺め、こういった事柄に近づくのには抵抗があったが、今になって心に響いてきた。これも、あの震災があったから導かれたことなのだろうか。一見、別の事柄に思えることでも、世界のありようはいつの間にか私に浸透して、やがて写真にも現れてくる。私が求めているものに畏れに似た感覚が混じり始めたのは、いつの頃からだろうか。                           

                                           2013.3.23